第七十六話 汝の敵を愛せよ 其の壱
まあ、あり得ない話じゃない。この子が三歳だとして、賢颯が十四歳の時にって考えれば充分成り立つ話だ。でも、父親が賢颯だったとして腑に落ちない点はいくつかある。どうして東京に? どうしてこの子は賢颯がパパだと認識できた? 賢颯はこの子の存在を知っていたのか?
……知ってるはずがないよな。もし知ってたら僕とこうなってないどころか、東京に出て来ることなんてなかっただろうし、何より賢颯がそんな無責任なことをするはずがない。
かといって他人の空似は絶対にないだろう。こんなイケメン、洸征くん以外にいるわけがないし、見間違えようがない。
賢颯がしゃがんで男の子を抱き上げる。
「親子に見える?」
「うん、なんかすごく格好いい」
「はっはっは、おまえ名前は?」
「あさひ」
「あさひ、かーちゃんどこ?」
「あっち」
男の子が指差したほうに顔を向けると、女のひとが吉村さんと話をしていた。
淡い栗色の髪をフワフワさせながら走り寄って来た “あさひくん” は、陶磁のような白い肌で大きな空色の瞳を縁取る長いまつげをしばたかせ、赤味を帯びた小さなくちびるを興奮で尖らせながら、賢颯の腕の中でそわそわしていた。
こどもの頃の賢颯って、きっとこんな感じだったんだろうな……
僕たちに気付いた吉村さんは「ちょうどよかった!」と言って笑い、女のひとは驚いて目を見開いた。
「朝陽! 勝手にどこ行ってんのよ!」
「久御山くん、こちらが今回の企画担当の岸川……今日は休みだったんだけど近くまで来たらしくて」
「あのね、パパみつけたんだよ」
「すみません、ご迷惑をお掛けしたみたいで……朝陽、ほらおいで」
「……岸川って、凪穂? 岸川 凪穂!?」
「やだもん、パパだっこする」
「あれれ? 岸川さん、久御山くんとお知り合いなの?」
「えっ!? ああっ! ケンソーじゃん!」
ちょっと待ってくれ、情報が渋滞してて何がなんだかさっぱりわからない……!
「こんにちは、岸川 凪穂です」
岸川さんは、朝陽くんを抱える賢颯と僕に名刺を差し出した。賢颯は片手で名刺を受け取ると、それを凝視したあと岸川さんの顔を確かめるように眺め、それから朝陽くんをガン見した。
緩くウェーブした長い髪を無造作にまとめ、デニムにヒールを履いた岸川さんは、後れ毛とアーチ状の眉と赤い口紅が艶っぽく、なるほど賢颯が好きそうな色気のある美人だった。
「ふふっ、久しぶり……吉村さんから話を聴いて驚いちゃった」
「それで久御山くんの名前聴いた時、少し微妙な顔してたんですね…」
「そうなの、地元が一緒で……まさか東京で逢えるとは思ってなかったから」
「昔、オレを捨てて逃げたんですよこのひと」
「ええっ!? じゃあ因縁の再会なんですかっ!?」
「日替わりで女を取っ替え引っ替えしてたのは、どこのどなたさんでしたかしら」
「まさかいま、ここが修羅場なんですかっ!?」
吉村さんが慌てるのもわかる。賢颯が言ってることも、岸川さんが言ってることも多分八割くらいは事実だろうけど……ふたりとも笑ってるってことは、そんなに深刻な状況ではないのかな…
「あ、あのっ、とりあえず撮影始まりますから、まずはスタジオに」
「そうね、雰囲気だけでも伝わるといいんだけど」
吉村さんたちに着いて行く間も、僕の頭の中は賢颯と岸川さんのことでいっぱいだった。僕の知らない賢颯を知っている岸川さんが羨ましくもあり、正直妬ましくもあったけど、ふたりが並んで歩いている姿を後ろから見ていると、実は賢颯も知らないひとなんじゃないか、という気がして来てのどが詰まる。
スタジオの前で吉村さんが振り返り、一瞬朝陽くんに視線を動かしたあと目を泳がせた。ああ、撮影してる現場に小さい子がいると都合悪いのかな。岸川さんが賢颯に腕を伸ばし、朝陽くんを受け取ろうとしたところで思わず声が出た。
「あの、差支えなければ僕が見てますから」
「え、でも藤城くんも見学したいんじゃないの?」
「いえ、僕は付き添いですし、担当される岸川さんが一緒のほうがいいと思うので」
「ほんと? 助かる! お願いできる?」
「はい、建物の中散策してますね」
賢颯から朝陽くんを預かり、僕はスタジオに入って行く三人を朝陽くんと見送った。
おとなしく腕の中に納まってくれたものの、不思議そうな顔をして僕を見つめる朝陽くんに、僕は自己紹介がまだだったことを思い出して慌てた。
「あっ、僕、湊っていいます」
「…みなと?」
「うん、湊……パパの友達だよ」
そういうと朝陽くんはパッと顔をほころばせた。危ない危ない、事案が発生するじゃないか。でもこれって、小さな子を連れ去ったように見えたりしないかな……親子、とまでは行かなくてもせめて兄弟くらいには……見えないか。
「朝陽くん、いくつ?」
「さんさい。みなとくんは?」
「十七歳だよ。幼稚園に通ってるの? それとも保育園?」
「ほいくえん! みなとくんは?」
「僕は幼稚園だったなあ……保育園、楽しい?」
「うん、けいすけくんと、あかねちゃんと、さくらちゃんとあそぶの」
「そっか、何して遊ぶのが好き?」
「えっとね、おりがみとブランコ」
「朝陽くん、折り紙折れるんだ? 最近何折ったの?」
「いぬ! みなとくんは、なにがすき?」
「そうだなあ……僕は絵本と積み木が好きだったかな」
「えほん? ぼく、ずかんもってるよ」
「いいね、何の図鑑? 乗り物とか?」
「しょくぶつ! わかる?」
「植物図鑑? 草とか花とかのやつ?」
「そう、そのやつ! このまえはね、つゆくさみつけたんだよ」
「すごいね、お昼には萎んじゃうんだよね」
他愛ない話をしながら、僕は朝陽くんを抱いて建物の中をぐるぐると歩き続けた。三歳の子って結構重いんだな……ちょうど自販機を見つけたので、それとなく休憩を匂わせながら一応確認をする。
「朝陽くん、ジュース飲んでもママに叱られない?」
「うん、みなとくんは? しかられる?」
「ううん、大丈夫。何が好き? 飲みたいものある?」
「えっとねえ……ぶどうのがいい」
「了解…僕、いちごにしようかな」
窓際のソファに腰をおろすと、朝陽くんは僕の膝の上によじ登り「ストローして」と紙パックのジュースを差し出した。そうか、まだ自分で挿せないのか……ストローを挿し、こっち持つんだよ、とパックの側面を指差すと、そっと側面に指を添えて受け取った。
……パパ、か……初めて逢った僕にもおとなしく抱かれてるところをみると、なんていうか、大きい男のひとってのがパパっぽくてちょっと嬉しかったりするのかなあ、なんて思ったりした。考えてみたら賢颯とも初対面だな、朝陽くん。
── パパ、かあ……
───
朝陽くんを膝に乗せ、ジュースを飲みながら再び他愛ない遣り取りをする。ピーマンが苦手なこと、昆布のおにぎりが好きなこと、虫歯がなくて褒められたこと、同じクラスの女の子に告白されたこと(!)、図書館が好きなこと、猫と話ができること。
それから、今年のクリスマスはパパと一緒に過ごしたいこと。
過ごせるといいね、なんて思ってもないことを笑顔で言う僕も大概醜い。その時、目の前の扉が開き賢颯たちが出て来たのを見て心臓が大きく鳴った。醜い自分を見透かされたようで、なんだか居心地が悪くなった。
「藤城くん、ありがとう! 朝陽、迷惑掛けたりしなかった?」
「いえ、とってもいい子で話も上手で楽しかったです」
「ふははっ、湊のほうがパパみたいじゃん」
朝陽くんは僕の膝からおりると、「みなとくん、ありがとう」と言って岸川さんへと駆け出した。
「あのね、みなとくんにジュースもらったの。ぶどうの」
「ええっ!? ちょ、お金! お金払いますから!」
「朝陽くんに付き合ってもらったお礼なので、僕に出させてください」
「なんだ湊、カッコイイじゃん……じゃあジュース奢ってあげるからオレとデートして」
「マクドじゃなくてスタバならいいよ」
「よし、交渉成立な」
「久御山くん、藤城くん、本日はお疲れさまでした」
「あ、吉村さんもお疲れさま。撮影おもしろかった」
「わたしのことも労いなさいよ、ケンソー」
「ハイハイ、お疲れお疲れ」
「パパ、だっこ」
賢颯の脚を抱えながら、朝陽くんは一所懸命首を反らして上を見上げた。賢颯がわきの下に手を入れると、もう待ち切れないといわんばかりに脚をバタ付かせ、好奇心と興奮と楽しさが入り混じった喚声をあげながら朝陽くんは賢颯の腕の中に納まった。
「朝陽もお疲れさん、デート楽しかったか?」
「うん、みなとくんとまたあそびたい!」
「はっはっは、湊くんはオレのだから遊ぶときはオレの許可取ってね」
「バカ何言ってんだよ、大人気ない」
「でもそうやって久御山くんが朝陽くんを抱っこしてると、本当の親子みたいですね!」
「……みたい、じゃなくて本当の親子ですもの」
「は?」 「え」 「……」
「親子よ? 朝陽、ケンソーの子だから」
「は? おまえそれ本気で言ってんの?」
「冗談でこんなこと言うわけないじゃない」
「いやおまえ冗談みたいに姿消したじゃねえか」
「おほほ、そんなこともあったわねえ……でもあんたの子よ」
僕と吉村さんはお互い「こういうとき、どんな顔すればいいのかわからないの」という顔で窓の外なんかを眺めていた。もう少し深刻そうにしてくれていれば席も外しやすいものを、まるで雑談のように繰り広げられるものだから始末が悪い。
「じゃあ、なんで黙っていなくなったのよ」
「妊娠してるなんて思わなくて」
「わかった時に連絡くらいすりゃいーだろ」
「黙って消えた手前、連絡しづらくて」
「で? 本当は?」
「もうよしましょうか……ふたりが本気で心配してる気がする…」
……は?
「じゃ、来週よろしくお願いしまーす」
賢颯は朝陽くんを岸川さんに引き渡し、吉村さんに挨拶をすると僕の肩に手を回して、もう片方の手をひらひらと振りながら歩き出した。引きずられるように僕も歩き出すけど、えっと、朝陽くんの話ってどこに着地したんだ!?
「えっ!? あ、はいっ、よろしくお願いします! って、え!? 冗談だったんです!?」
「吉村さん、慌て過ぎよ……じゃあケンソー来週よろしく、藤城くんもありがとう!」
「あ、はい、ありがとうございました…ちょ、賢颯引っ張るなって…お疲れさまです、朝陽くんまたね」
「みなとくん、パパ、ばいばい」
「朝陽、またなー」
ど、どういうことなんだ? 結局冗談っていうか、朝陽くんのひと違いってことなのか? 僕と吉村さんが、ウェットに富んだイケてるジョークを理解できてないだけだったのか? 軽いジョークのつもりだったとしたら、真面目に突っ込むのもどうかと思うけど……ほんとに単なるひと違いなのかな…
「スタバでいいの?」
「う、うん……いいけど…」
「じゃあ、スタバ行ってさっさと帰ってセックスしよ?」
「おい、それとデートがおまえの中じゃ同じ価格なのか」
「ケーキかサンドイッチ、好きなほう付ける」
「僕の身体ってそんなに安いのか…」
ジュース奢ってあげるからオレとデートして、って話がいつの間にかエッチしようって話になってて、まあそれは全然ウェルカムなんだけど、僕はやっぱり岸川さんと朝陽くんのことが気になっていた。
***
家に着くなり湊を寝室に連れ込んで、ベッドに押し倒す。ベルトを外し、ファスナーを下げたところで湊が慌ててチノパンのウエストを掴み、脱がされるのを阻止した。
「ちょっ、いきなり!?」
「言い出したのは突然でも、考えたのは突然でない」
「夏目 漱石かよ」
「ずーっと我慢してたんだもん……湊はイヤ? そういう気分じゃない?」
「そういうわけじゃないんだけどさ」
「まあ、いろいろと気になっちゃうのはわかるけどね」
押し倒した湊の腕を引き寄せ、胡坐の上に座らせる。ベッドの上でこの体勢って完全に対面座位じゃん、なんて余計なことを考えながら、湊の腰に腕を回し抱き締める。肩に乗せられた湊の手が冷たい気がした。
「付き合ってたとかじゃないよ、凪穂と」
「うん……そうなんだ」
「言い方は悪いけど、セフレのひとりっていうか…」
「あ、うん……そうなんだ…」
「だから特別な感情は昔もいまもないよ」
「……うん」
「でもさ」
「……でも?」
「なんとなくだけど、朝陽はオレの子のような気がする」
湊は何も言わずオレの頭を優しく抱き寄せた。
湊の腕に抱えられながら、静かに流れて行く時間がまるで永遠に終わらないかのように思えた。