第四十五話 その男、桐嶋 彌秀
「あ? もっかい言ってみろ」
「すっ…すみません、すみません…!」
「あー、日本語わからねェヤツだったか、わかるヤツと代われや」
「すみません…! 必ず見つけますんで…」
「……当たり前のことを手柄立てるみてェに言ってんじゃねェよ」
通話終了のボタンを押すこともなく、男は不機嫌にスマートフォンを壁に投げ付けた。裸体のままベッドから立ち上がりフラフラと浴室へ向かう。低血圧で朝に弱く寝起きが滅法悪い、という理由で夕方からの仕事を選んだ男は、現在時刻が午前11時だということを確認すると舌打ちをしてシャワーハンドルをひねった。
「ぜってェ逃がしゃしねェぞ…」
***
「みっちゃん、今日スタジオ来る?」
「うん、行こうかな?」
構内のカフェでクラブハウスサンドをつまんでいると、澄が隣に座りクラブハウスサンドを分解し始めた。レタス、トマト、ベーコン、チキンをきれいに皿に並べ、それらを挟んでいたトーストを口に運ぶ。
「澄……中身どうするの」
「中身、好きじゃないから」
おれは皿に並べられたレタスやトマトを、まだ分解されていないクラブハウスサンドに挟みながら小言を漏らす。どうせいつものことだから、と澄はまったく意に介さない。甘やかし過ぎてるのかな、と澄に目をやると極上の笑みで「トースト美味しい」と満足気な声を出す。
ギターを担いだ澄とキャンパスを歩いていると、澄が立ち止まった。また何かに気を取られているのかな、と二、三歩先で振り返ると、血の気のない白い顔で一点を見つめたまま硬直している。
「…? 澄、どうし」
その時、おれの横をすり抜け澄に近付く男の背中に声を掛けたが返事はなかった。その男は立ち尽くしたまま動かない澄の髪を掴み、もう片方の手で澄の両頬を挟んだ。
「おめェは何やってんだよ」
「……桐嶋さん…」
「ふっ…まだ名前は忘れてねェみてェだな」
「あの、すみません…手を放していただけますか」
「…澄晴、この美人のオニイチャンは?」
「あの、すみませんけど!」
「ごめん、みっちゃん…先行ってて…」
「澄…?」
「ごめん、またあとで」
上品にスーツを着込んだ黒髪の男と澄の背中が、見えなくなるまで眺めていたことを、後々おれは酷く悔やんだ。
***
「……乗れや」
黒のスーツを着た強面の男が、黒塗りの車の後部座席のドアを開け澄晴が乗り込むのを待っていた。車に乗ろうとしない澄晴に痺れを切らした桐嶋は、澄晴の尻を蹴った足でそのまま澄晴の身体を車の中へと押し込んだ。
「手ェ煩わせんじゃねェよ」
「……どこに連れてくの」
「あ? 寝惚けたこと言ってんじゃねェぞ…愛の巣に決まってんだろ」
「やめてよ…今日スタジオあるし…」
「おめェの予定なんざどーだっていいんだよ」
桐嶋は軽く澄晴の頭を小突き、それから腕を組んで不機嫌な顔を若干緩めた。
黒塗りの車がマンションの地下駐車場で停まると、桐嶋は澄晴の腕を掴み乱暴に引きずり出した。車を運転していた強面の男は再び後部座席のドアに張り付き、澄晴が降りたことを確かめると静かにそのドアを閉めた。
「いつもの時間に迎えに来い」
運転手にそう言うと、桐嶋は澄晴の腕を引っ張りながら歩き出し、駐車場にあるエレベーターのボタンを押した。
マンションの鍵を開け部屋に入ると、澄晴は担いでいたギターをそっと壁に立て掛け、それを見ていた桐嶋は澄晴の頭を掴んでフローリングの床に押し付けた。
「ほんとに学習能力のねェ小僧だなおめェは」
「…桐嶋さ…痛い…」
「ふっ…桐嶋さん、だあ?」
桐嶋は澄晴の頭から手を放し、革張りのソファに腰をおろすとエルメスのベルトを外しスラックスのファスナーをさげた。
「澄晴」
床に押し付けられたままの姿勢で動きを止めていた澄晴は、ゆっくり身体を起こし桐嶋のそばまで行くと、その脚の間でひざまずいた。
「もう忘れちまったのか?」
澄晴は口唇を噛み締めながら桐嶋のスラックスの中に手を入れ、アンダーウェアを少し引き下げて柔らかい男茎を取り出し舌先を付けた。
「おやおや……奥床しいこったな」
桐嶋はひと差し指と中指で澄晴の口をこじ開け、二本の指で澄晴の舌を挟んでそれを優しく噛んだ。舌を絡めながら口の中を凌辱し続けると、澄晴の口の端から唾液が一筋こぼれ落ちる。桐嶋はニヤッと口唇を歪め、澄晴の股間に爪先を伸ばした。澄晴から短い吐息が漏れる。
「簡単におっ勃てるくせしやがって、なーに渋ってんだよ」
「……彌秀さん…ボク…好きなひとが」
「さっきの美人なオニイチャンか」
「…違うよ」
「眠いこと言ってねェで、気合い入れてしゃぶれ澄晴」
桐嶋の脚の間で、逃げられないことを悟った澄晴は、言われたとおり口を開け柔らかな舌を動かした。
***
「まだ連絡取れないのか?」
「うん…昨日スタジオにも顔出さなかったし、家にも帰って来なかったし」
「…心配なのはわかるんだけどさ」
成城なんつー高級住宅街にあるデカい家の中で、心配そうに顔を曇らせる橘さんと桜庭を眺めながら、オレは困っていた。
「綾ちゃんを連れ去った男がカタギっぽくないからって、なんでオレに声が掛かったわけ?」
「久御山、無駄に顔広そうだから」
「……無駄に」
「久御山の情報網で何かわからないかなって」
「写真の一枚すらないのにどうやって捜せと…」
「あ、名前ならわかるんだ。キリシマって」
「全国に何人キリシマさんがいるとお思いで?」
「橘、綾小路のお兄さんって何か知らないのか?」
「知ってるかもしれないけど…ちょっと顔合わせづらいというか…」
「…? 何かあったのか?」
「いや、たいしたことじゃないけど」
その兄貴に綾ちゃんが何をされていたのか、それを止めるために何をしたのか、橘さんはかいつまんで桜庭に話し、オレはそれを聞きながら当たれる線がないか考えた。
───
「あれ、珍しいねケンソー」
「ちーす」
入口のドアを開けて中を覗き込むと、結構な数の客で賑わっていた。とはいえ、そんなに大きな店でもないからたかが知れてる。黒いリネンのシャツの胸を大きく開けたマスターが、笑顔でオレに声を掛ける。
「夜遊び火遊び、足洗ったんじゃなかったん?」
「手を染めたのに足洗っちゃったからさ、手はまだ染まったまんまなんだよ」
「なるほど、じゃあ手洗わないとね……で、どうしたの」
「シロクロ兄弟、遊びに来てる?」
「…ケンソー、あんたまた何に首突っ込んで」
「不可抗力だよ…冷たい緑茶ちょうだい?」
薄暗いバーのカウンターにもたれ掛かり、マスターの小言をくぐり抜けて出入口のドアを眺めていると、ちょうど21時にドアが開きシロクロ兄弟がオレを見つけ、ボールのように飛び込んで来た。
「ケンソー! やっとその気になったん!?」
「相変わらず21時ピッタリに来るんだ」
「ケンソー久しぶり! うちらが恋しくなったん?」
「その気にも恋しくもなってないけど、久々だね」
シロとクロは双子の兄弟で昼は普通に大学生とやらをやっているらしい。とはいえ、オレは夜にしか逢ったことがないので、真っ黒なゴシックファッションに身を包んだふたりしか知らない。中性的な顔付きで、薄暗いバーの中では年齢も性別もはっきりしない不思議なふたりだった。
「マスター、奥使わせてもらってイイ?」
「悪いことしちゃダメだよ」
マスターから冷たい緑茶を受け取り、抱き着くシロクロ兄弟を引きずりながら店の奥にあるスタッフルームに入ると、いそいそシロとクロが服を脱ぎ始めた。
「こらこら、脱ぐな脱ぐな」
「ええっ!? ほな何しに来たん!?」
「ちょっと教えて欲しいことがあって」
「…報酬、カラダで払てもらうことにしたら脱いでも構へんのとちゃう?」
「日本銀行券で払ってもいいかな?」
「なんや、愛想ないなあ」と言いながら、シロとクロはソファに腰掛けたオレの両脇に腰をおろした。おとなしく話を聞いてくれるのかと思ったら、ふたりでまた服を脱ぎ出す。だから、脱ぐなっつーの。
「教えて欲しいことて、何?」
「ここの経営状況やったら赤字やで。年次決算のキャッシュフロー計算書見る?」
「なんでそんなもん持ってんだよ…」
「ちょこっと覗いたらあってん」
「なんでもかんでも覗くなよ…っつーか服着ろよ」
「せっかく脱いだのに!?」
「ケンソーも脱いだら解決やんな」
「…最近、身売りとか身請けとかどうなってる?」
「ケンソー、お金困ってんの?」
「カラダ売るほどなん? 貸そか?」
「ちげーよ! ちょっとひと探してんだよ!」
「誰?」
「キリシマって名前しかわかんないんだわ」
「…キリシマ?」
「…っ、知ってんの!?」
「いや、知らん」
「思わせぶりな間を取るんじゃねえよ」
── 知り合いがね、昨日から行方がわかんなくてさ。でもまったく手掛かりがないのよ。わかってんのは連れ去った相手が身長180cmくらいの黒髪のスーツ男で、名前がキリシマってことだけ。
でもちょっと引っ掛かったのが、連れ去られた知り合いってのがさ、ちょっと複雑な事情を抱えてるっていうか……兄貴と不仲でね、それがもつれにもつれて、兄貴に騙されてカラダ売ってたらしいんだわ。そんでもうひとつ、その兄貴ってのがどうも違法薬物に手出してるみたいでさ。
それで、未成年相手にウリの斡旋してるケバい兄さんとか、クスリ運ばせてるヤバい兄さんとかの動向に、変わったところないかなって思って。プロの犯行なら何かしらデータ漁れたりするんじゃないかなーって。
「行方不明て、男? 女?」
「十九歳の男で、身長高めだけど線の細いイケメン」
「協力したら脱いでくらはるかなあ」
「だから、日本銀行券で払うっつってんだろうがよ」
「アホやなあ、モチベーションゆうヤツがちゃうやんか」
「……オッケー、じゃあその彼氏に頼んでみるよ」
綾ちゃんはどうかわからないけど、湊の話を聞く限り、橘さんは教室でヤってるところを見られても全然平気そうだったらしいからな……綾ちゃんのために脱げと言えば、あるいは…
「彼氏てどんな子?」
「耽美系のイケメンだな…身長高くて、フェロモン撒き散らしてる感じの美人」
「その子で手え打とか…いつならええの?」
「明日でも大丈夫じゃないかな……いや、その前に確認取らせろよ」
「ほな、いま電話して」
「は?」
いま? いや、シロクロ兄弟がノートPCを触ってるのは見てわかるけど、もしかしてもう調べてんのか?
「もしもし、久御山だけど」
「お疲れ、何か変わったこととかあった?」
「あー、うん、一応知り合いに当たってはいるんだけどさ」
「ごめんね、久御山…おかしなことに巻き込んでしまって」
「いや、その件で相談があるんだけど…」
「相談? 何かわかったの?」
「とっても言いづらいんだけどさ」
「…何か悪い報せなの?」
「橘さん、ちょっと脱いでもらってもいい?」
「は?」
「美大のデッサンモデルにでもなったつもりで…」
「えっと、ごめん、ちょっと言ってることがわからないというか」
「脱ぐだけだから」
「なんのために?」
「えー、先方のモチベーションアップのため、と言いますか」
「…それでモチベーションが上がる先方って、どんな」
「捜索の時間短縮が見込めるので…」
「……さっぱりわからないけど、早く見つける手助けになるの?」
「うん、なる」
「……いいよ、わかった…いまどこ?」
「いまから来るの!?」
シロクロ兄弟といい、橘さんといい、どんだけ “待て” ができないんだよ…
「いまから大丈夫だって」
「話のわかるええ子やな…ほな、場所移そか」
「どこ行くの?」
「わざわざラブホとか邪魔くさいから、ケンソーの家で」
「オレん家かよ」
───
オレたちが家に着いてから20分後くらいに、到着した橘さんがインターホンを鳴らした。
「迷わなかった?」
「うん、わかりやすかった」
橘さんはリビングのソファを陣取っているシロクロ兄弟を見ると、深々と頭をさげた。
「橘と申します。このたびはお手数をお掛けしまして」
「…ほんま、えらい別嬪さんやな」
「ひと捜し、気張らさしてもらいますわ」
「その前にシロクロ、挨拶しろよ…」
「シロです」
「クロです」
「……えーと、オレの知り合いでシロクロ兄弟。平たく言うと街の情報屋さん」
「ケンソー、このロケーション活用してもええのん?」
「何しようってんだよ」
「目の前でただ服脱いでんの見てんの、もったいないやろ」
「兄さん、ベッドに座ってこっち見やんと脱いでみてくれる?」
いちいち注文が細けえ!
橘さんは文句も言わず、薄っすら笑みさえ浮かべて引き受けてくれた。空気を読んでいるのか、気遣いなのか、それともあまり抵抗がないのか、どれだ。
寝室のドアを開け放し、ベッドに腰をおろした橘さんが見える角度でシロクロ兄弟がしゃがみ込む。手招きをされ床をポンと叩かれたが、オレの席は要らん…
「へえ、ゴルチエのジャケットにヨウジのカットソー…お洒落さんやなあ」
「意外とワイルドなんやな……身体付きも…」
「ほんまやん、もっとほっそいかと」
「肩幅、結構あるなあ…46…47cmくらいやろか」
「胸囲86cmくらい? 漲るわあ…」
「脱ぎ方、きれいやんな」
「そやね、モゾモゾせえへんのは点数高いわ」
なんの点数だよ。
「インナーは絶対カルバンクラインや思てたわ」
「まさかのトゥート…しかもnanoボクサー」
「Tバックビキニ穿かせたいわあ」
「ねえケンソー、頼んで来て」
「何をだよ」
「Tバック、穿いて脱いでくれへんかな、て」
「シロクロ、天才なのにほんと変態だな…自分たちで頼んで来いよ」
しゃあないな、と言いながらクロは鞄の中をガサゴソと漁り、ふたりで橘さんの元へ寄って行った。ちょ、いま橘さんて全裸なのでは? 一応気になって寝室を覗き込む。
「橘、名前は?」
「真光です」
「じゃあ真光、これ…と、これ」
「これ…は名刺で、これ……これは?」
「カルバンクラインのジョックストラップ」
「穿いて脱いでみて」
「あの、おれはいいんですけど、楽しいですか?」
「うん、専属として囲いたいから名刺渡したんやけど」
……橘さん、大学二年でもう就職先決定か? いやそれより「おれはいいんですけど」って、いいんですか? 変態兄弟を付け上がらせるだけだと思うが…しかも瞠視症の性的倒錯兄弟に専属として囲われるってのは…
「橘さん! 大事なことを伝え忘れてた気がする!」
「大事なこと?」
「シロクロ、天才だけど変態なんだよ」
「ケンソー、いまうちらを敵に回してええんか?」
「はぁ、覗き見しながら探した写真、削除しよか?」
「写真、ってもう該当者あがってんの!?」
シロとクロはオレを恨みがましい目で一瞥したあと、ふたりでボソボソと何か話し合っていた。