第四十一話 水に溺れる魚
世の中に男と女がいたのは昔の話で、いまのご時世ふたつの性別だけでは成り立たなくなっている。女の子なのに男のカラダを持って産まれて来るとか、根本的に製造段階で神さまがうっかりしてたとしか思えないんだが、神さまは割とうっかりしていることが多い。
「でも……お風呂に入るたびに嫌悪感があるっていうか…」
「自分のカラダに?」
「はい…」
魚住は膝の上で俯いたまま、スカートの裾を両手で押さえた。そういう悩みっていうのもあるんだな……元々ノンケでシスジェンダーであるオレには、きっと想像も付かないほどの葛藤かもしれない。
「トランスジェンダーってことはさ、女の子になりたいわけではないの?」
「…悩んでるんです」
「そっか、まあ気軽に決断できることじゃないのかな」
「……昔から可愛いものが好きで、よくいじめられたんです」
「なんで? オレだって可愛いものは大好きだけど」
そう言って魚住の頬を手の甲でなでたら、可愛いの種類が違う、と魚住は照れながら笑った。
「堂々とミニスカート穿いて、デートしたかったんです」
「うん、ニーソがオレの性癖に刺さってイイ感じ」
「カッコイイ先輩とデートしてるの、見せびらかしたくて」
「だから室内じゃなくて外がよかったのね」
「女の子としてイケメンにエスコートされるの、夢だったんです」
「ささやかな夢よなあ」
「…賢颯さんと藤城先輩が一緒にいるのを見るのが好きでした」
少し寂しそうに笑う魚住の手を握り、「もっと見せ付けに行こうぜ」と園内を歩き出した。「パンダカー、付き添い要らないってさ」と言うと、ピンク色の頬を膨らませながらパンダの背中に乗った魚住が笑う。
───
小さな遊園地をあっという間に制覇して、昼飯は外で食おう、と花やしきをあとにした。駅の周辺にいくつかあるカフェの中から、魚住が選んだのはパンケーキの店だった。
「トッピング、全部乗せしようぜ」
「そんなに食べられません!」
「大丈夫、食えない分はオレが食うから」
ホイップにバニラアイス、ナッツにバナナと果物と…さすがにソースは全部ってわけにも行かないのでチョコレートソースにして、冷たいアールグレイとカフェラテを頼みしばし待つ。
運ばれて来た焼き立てのパンケーキは厚みが半端なくて、テンションが上がった。
「引っ越しって、親の仕事の都合?」
「いえ…あの、両親が離婚したので」
「ああ、そうなんだ…翡生、大学は?」
「一応進学するつもりではいますけど…」
「こっちの大学に進めば、また花やしき行けるよ」
魚住は頼りなく笑いながら、パンケーキを突っついた。
「次、どうする? キッザニアで職業体験するか?」
「高校生ですってば!」
「よみうりランドか、ドームシティか…井の頭公園か」
「観覧車、乗りたいです…」
「密室だけど、いいの?」
「密室で何をするつもりだよ…」
声に振り返ると、湊が呆れた顔で立っていた。
「…藤城先輩!?」
「魚住くん、ミニスカート可愛いね」
「あっ…ありがとうございますっ!」
「よし、じゃあ行こうぜ密室に」
店から出て魚住の右手を握ると、湊が魚住に右手を差し出した。恐縮しながらうろたえる魚住は左手で湊の手を取り、オレたちは三人で歩き出した。
「ふっ…捕えられた宇宙人」
「…っ!?」
「やめろ、久御山……逃げられたらどうするんだ」
「藤城先輩まで!?」
「藤城先輩じゃなくて湊くん、だよ」
魚住にそう言うと、湊は優しく笑ってうなずいた。
もちろん湊に逢ったのは偶然じゃなくて、花やしきでオレがこっそり連絡をしたからだった。
「どうよ、両手に花」
「う、嬉しいですっ!」
「右手の花はトリカブトだけどね」
「おう、じゃあ左手の花はなんなんだよ」
「……ドクダミかな」
「どっ、ドクダミは生薬として使われますし、お茶にもなりますしっ!」
「ほお、じゃあトリカブトは?」
「どっ…毒矢として狩猟や戦闘に利用されたり…」
「おまえらふたりとも隅田川に流してやろうか」
オレの前で頬を赤くしていた魚住は、湊の前でも同じように頬を赤くしながら、しかし艶っぽい瞳で湊の手を見つめていた。電車の中で魚住の防護壁になったオレと湊は、可愛い女の子をナンパしている悪い男にしか見えないかもしれない。
───
ドームシティには絶叫マシンがあった。
「あのっ、おふたりとも絶叫マシンは平気ですかっ」
「…オレ初めてだからわかんね」
「僕も初めてだから…」
遊園地に行ったことがないのか、と魚住は驚いた。
「地元に遊園地ないんだよ」
「えっ、賢颯さん東京じゃないんですか?」
「うん、京都」
「USJとかあるじゃないですか」
「ユニバ、大阪じゃん…」
「ふじ…湊くんは?」
「…僕、小さかったから親が乗せてくれなかったんだよね」
「よかったな、いまなら乗り放題じゃん」
絶叫マシン大好きという魚住に対し、初体験のオレと湊は緊張で真顔になっていた。最高傾斜角80度って。時速130kmって。山手線は90kmで東京メトロでも100kmだぞ。
── そして90秒という走行時間はとても長く感じられたが、概ね1分30秒で終わったらしい。
「あのっ、み、湊くん大丈夫ですかっ」
「…うん、平気」
蒼い顔でしゃがみ込む湊を不安そうに見つめながら、魚住は「ハンカチ濡らして来ますっ」と走り去った。両手をあげて大喜びだった魚住、絶叫しながら耐えていたオレ、そして、無言で平静を装っているのかと思いきや、怖くて声も出なかったとグッタリしている湊……見た目はカッコイイのに残念なイケメンだ…
「おい、ほんとに大丈夫なのか?」
「ん…抜けた魂がまだ戻って来ない…」
うん、言ってる意味はわかる。最高地点から落ちる瞬間、魂抜けたよね。
しばらくすると走って戻って来た魚住が、湊の額に濡れたハンカチを当てた。力なく笑いながら、湊は小さな声で「ありがとう」とつぶやいた。湊の前で腰をおろし膝の上に魚住を座らせる。俺の膝に座りながら湊の介抱をする魚住が、なんだかおかしかった。
通り過ぎて行くひとたちの目に、オレたち三人はどう映ってるだろう。
魚住を湊の膝の上に乗せ、オレは飲み物を調達しに向かった。
***
「ご…ごめんなさい…」
「どうして謝るの?」
「自分、なんていうか、ひとりではしゃいでしまって」
「魚住く…名前、なんだっけ」
「翡生です」
「翡生に楽しんで欲しいから、謝らないでよ」
「あのっ、あの……重くないですか…」
「や、全然重くはないけど…いいの? こういうの、女の子のほうが変な目で見られない?」
「見られてもっ…大丈夫、です…」
「うん、それならいいんだ」
魚住くん、久御山のことが好きなんだと思ってたけど……どうやらそうじゃないみたいだ。僕の膝の上で赤くなる彼を、可愛いなと思った。
「あの、忙しくなかったですか…」
「うん、あんまりにも暇過ぎて、家でゲームしてた」
「…湊くんが賢颯さんと一緒にいるところを見るのが好きで」
「うん」
「いつかおふたりと、お話してみたいと思ってました」
「話してみてどうだった? ガッカリさせてない?」
「とっ、とんでもないことですよっ! 賢颯さんも湊くんも格好良くて…嬉しいです」
「ふふ、久御山は格好いいけど、僕はいたって平凡だから」
「湊くんは…格好いいですよ…」
「ありがとう、そう言ってもらえると救われるかな」
「あのっ…湊くんは……あの…」
「うん」
「自分の身体が女の子になっても…あの、またお話してくれますか…」
「…逆に、どうして話してもらえなくなるかも、なんて思うの?」
「男に産まれたのに…手術とかって…」
「んー、手術で本当の自分を取り戻せるならいいんじゃないかな」
「…そう言ってもらえて安心しました」
「僕の場合、手術じゃどうにもならないからさ」
「……えっ」
「同性愛者なんだ」
「そ…そうなんですか…」
「あ、久御山は違うよ? ヤツは普通にヘテロだから」
どうしてこんなことを言おうと思ったのかわからなかった。もしかしたら魚住くんがトランスジェンダーだって話を聞いてしまったから、無意識に秘密の共有をしようと思ったのかもしれない。彼の秘密を知ったから、自分の秘密も教えないと不公平だと思ったのかもしれない。
膝の上で戸惑い気味だった魚住くんがパッと顔をあげ、しばらく僕の顔を見ていた。彼が何か言い出すのを黙って待っていたら、彼の顔がそっと近付いた。
「お茶でいい?」
久御山の声に、僕も魚住くんも肩が飛び跳ねた。
***
ったく油断も隙もねえな!
最後にひとつくらいイイ思い出作らせてやろうと思ってふたりきりにしたけど、そこまでしていいなんてひと言も言ってねえぞ。あ、でも朝ほっぺにちゅーした気がするな…
時計を見ると15時半。観覧車に乗るには少し早いかな…
「ねえ、あの傘みたいなヤツ行こ」
「コースターよりはマシかも」
三人で “スカイフラワー” のそばまで行って、オレと湊の足が止まった。なんだ、この高層ビルの窓拭きに使うゴンドラみたいな、まったく安心できなさそうなカゴは……
「あの…おふたりとも大丈夫なんですか…」
「僕は大丈夫だけど」
「オレも平気だよ!」
地上61mの高さまで吊り上げられ、そこから見た目より全然速い体感速度で地上へと落ちる。オレと湊に挟まれ、真ん中で万歳をする魚住をすげえな、と思った。当然、オレと湊はカゴにしがみ着いたままだ。足元まで網にする必要ないだろ、と思いながら透けすけの足元にタマヒュン不可避だ。
── 女の子って、なんで遊園地が好きなんだろう。
結局そのあとは無難な乗り物にふたつほど乗って、お目当ての観覧車に向かった。定員四人の観覧車で、魚住はオレと湊を隣同士に座らせた。これ、超絶バランス悪くないか? 魚住のほうはせいぜい50kg弱だろうが、こっちはふたりで150kg近いんだぞ?
観覧車が回り出すと魚住は頬を緩ませ、何か懐かしいものでも見ているような顔でオレたちを見ていた。
「……引っ越したくないなあ…」
魚住は小さな声でつぶやき、細い指先で目尻を拭いながら笑う。すると驚くことに、湊が腕を伸ばし魚住の頭をなでた。
「大丈夫だよ、僕たちここにいるから」
「……逢いに来てもいいですか」
「事務所を通してからお願いしますね」
「誰が事務所だよ」
「オレ、湊のマネージャーだから…」
魚住は泣きながら笑い、それから窓の向こうに視線を動かした。日が暮れて薄闇が空にグラデーションを作り、排気ガスで淀んでいるはずの空気が透き通って見えた。波長の長い赤色が、ゆっくりと闇に飲み込まれ同化して行く。
どこで見上げても、空はつながってるよ ── オレは陳腐な言葉を喉元で押し返した。
───
「今日はありがとうございました」
三人で駅まで歩き、改札の手前で魚住はペコっと頭をさげた。LINEの交換をして、連絡しろよ、と約束をさせる。もう二度と逢えないわけでもないのに、何かが胸に込み上げた。
湊の肩を抱き寄せ耳打ちをすると、湊は驚いた顔をしながらも割とすんなり受け入れた。
魚住の両脇に立ち、右にオレ、左に湊がほっぺにちゅーで顔を挟む。口唇を離すと魚住は目を見開いてオレと湊を交互に確かめ、信じられない…と声を裏返した。
「色男両手に目立ってるよ、翡生」
「…はひ……夢のようれす…」
「イイ女になって、こっそり逢いに来てね」
「おう、あんちゃん、なんでこっそりなんだよ」
「おまえにバレたら手出しかねないだろ…」
「なるほど…イイ女になって戻って来いよ」
「わたくし、翡生のマネージャーをしております藤城と申します」
「通さねえ通さねえ! 事務所にバレないように来い!」
「……って言ってるから、また逢いにおいで」
「…あれ?」
何度も振り返りながら歩いて行く魚住を、ふたりで見送った。
───
「進学したいって言ってたけど、東京はイヤなのかな」
ソファで横になっている湊に訊くと、しばらく間を空けて湊が答えた。
「ご両親が離婚してって話なら、進学にあまりお金掛けられないとかさ」
「ああ…でも国立で奨学金もらうとか、方法あるじゃん」
「女の子になるためにさ、精巣摘出手術して、陰茎切除手術して、造腟手術して外陰部形成手術して、これだけで二百万円程度掛かるんだよ。それ以外に豊胸とかホルモン注射とか、脱毛とか考えたらもっとお金必要になるでしょ」
「あー…維持費とかも必要なのか…」
「物事の優先順位は彼が決めることだから」
「ん、そうだな」
いつか元気な笑顔を見せてくれたらいいな。
そう思いながら湊のシャツを脱がせようと裾を掴み、スルリとカラダをかわされ「ああ、こっちのほうがオレにとっては大問題だったな」と、最近懸念していたことを思い出した。
── つづく!